2010,08,07, Saturday
自由研究;自他共楽について
報徳学園少林寺拳法部 部長・監督 金澤智章
私が日々少林寺拳法を修行する中、そして高校生や中学生に少林寺拳法を指導する中、最も大切にしているのは「自他共楽」の思想です。「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを」と置き換えた表現もありますが、私はこれを少林寺拳法の根本思想と位置づけて大切にしています。
少林寺拳法の演練を通じて身も心も丈夫になり、自分一人が生きて行くには余りある活力が得られます。或いは得なければなりません。そして、その余剰はどうするのでしょうか。自分の名誉や利益のため、或いは自我を通すための力として使うのでは「自他共楽」の精神に反します。積極的に余剰を生み出してこれを他人のために、社会のために善用してこそ、その精神に則ったものとなり行としての少林寺拳法になります。
私は報徳学園に学び、そして現在同校に奉職している関係で、報徳思想にも触れることができました。以徳報徳(徳を以て徳に報いる)に代表される報徳思想を樹立した二宮尊徳(幼名、金次郎)が追求したのは、この「自他共楽」に通じるものです。報徳思想においてこれは「分度推譲」という言葉で表されます。
分度とは分限であり限度であり、人がなすべきことの範囲でもあります。これを収入と支出に例えれば、10万円の収入があれば5万円で生活し、残りの5万円は自分の将来のためや、困った人に役立ててもらうためなどに蓄えていこうというものです。自分のための蓄えは自譲、他の人々のための蓄えは他譲といいます。このようにして自分の分度(5万円の生活費)を定め、残りを余剰として推し譲ることが「分度推譲」です。
二宮尊徳は次の言葉を残されました。これは『二宮翁夜話』の一節です。
是れ則ち天理なり 〜 われ常に
「奪うに益なく、譲るに益あり
譲るに益あり、奪うに益なし」
是れ則ち天理なりと教ふ。
能々玩味すべし。
二宮尊徳は、譲ることこそ世のため、人のためになるが、奪うことには一切良いことがないということを、常に「天理」として教えていました。
第二次世界大戦後大いに経済復興し、世界でも有数の豊かさを誇る国になった日本ですが、21世紀に入ってその現状はどうでしょう。アジア諸国や中国、インドなどの台頭により、日本の製造業の国際的競争力は低下し、大きな不況を招きました。その結果、殺人事件や詐欺事件、偽装事件、いじめや自殺など、痛ましいことが多発しております。こういった事件に共通するのは、物であれお金であれ、あるいは命であれ、全て他者の何かを「奪う」ということです。
たとえば他人の財産を「奪う」と、一見その時自分は豊になったように思えるかもしれませんが、このような方法で富むことに価値があるのでしょうか。さらに、「奪われた」側はどうなるのでしょうか。これを思わず「奪」に走れば、禽獣則ち鳥や獣と同じになるのです。
私たちはそれぞれ社会的立場が異なり、暮らしぶりも様々です。そういう中で、一人一人が分度をたてて、その分度を正しく守って生活してはどうでしょう。大小を問わず、経済的にも精神的にも余剰を作り、これを他人に、そして社会に譲ればどうでしょう。きっと物心共に豊かな世の中になるでしょう。
報徳学園の校歌にこのことば盛り込まれています。
「分度をたてて あやまらず、推譲もって 耕さむ」
私たちは一旦分度を定めればその用い方や限度をあやまることなく、推譲の精神をもって自分の心を耕し、世の中を耕すよう努力しなければならないのです。
奪うことに何の利益もありません。それよりも分度を守って余剰を作り、物心共に「譲る」精神が大切です。そして、この「譲」を実践することは「譲道」といわれ、二宮尊徳が最も重視したことです。
「人道は譲道によりて立つものなり」
開祖が目指された「自他共楽の理想の楽土」が、江戸時代に生きた二宮尊徳によっても別の言葉で端的に表されています。時代が変わっても、場所が変わっても「自他共楽」こそ我々人間が目指すべき、そして歩んで行くべき道であると再認識できます。